『所蔵作品展 パッション20 今みておきたい工芸の想い』東京国立近代美術館工芸館
コンパクトな会場だけれど、資料も作品も情報密度が高くてとても疲れた。そして自分の勉強不足をひしひしと感じた(毎回言ってる)。
工芸と民芸、工芸と工業、工芸と美術、伝統と伝承、彫刻と工芸、デザインと美術、装飾と美術、Artと美術。そのボーダーと言葉の意味についてうっすらと勉強してきたつもりでいたけど、ああ全然語れないやと思った。
明治初頭に西欧から受容し制度化された「美術」。それを理解するためには同時に「工芸」という概念が成立した軌跡を辿る必要がある。この企画展はまさにその軌跡を年代順に紹介していくもので、工芸館のフィナーレにふさわしかった。工芸館が国立で近代美術館に併設された意義を感じた。(移転して独立するっぽいけれど)
作品からその歴史背景や作家の意図を読み取ることも大事だけれど、私はやはり工芸は、素材の面白さと卓越した技巧の冴えを目にすることが一番楽しいなぁと感じた。
この建物、移転後はどうなるの?
『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』東京国立近代美術館
「窓」という記号を通して、世界を眺める企画展。
窓が象徴するもの、窓の役割、窓に込められた暗喩、窓の機能…。様々な切り口で窓を観察することで、物事の多様な側面が浮かび上がる。
『窓に住む家/窓のない家』藤本壮介
この作品の出現によって「外」に「内」が誕生。「内」へ進むほど開口の重なりが複雑になり、「外」に対する感覚が変化した。
窓は二つの場を繋ぐものであると同時に隔てるものでもあり、窓は壁ありきであることに気付いた。
『麗子肖像』岸田劉生
頭上のアーチが立体的に描かれている。つまりこれは「"額装した麗子の肖像画”の絵」。それにしては立体的すぎる麗子の描写。この矛盾、鑑賞者にリアリティを感じさせるための、劉生の手法らしい。
二次元と三次元を行き来する麗子。窓(額縁)の向こうの世界をどう捉えるかは自分の認知が決めているのだなと体感した。
それにしても、次元の往来をさせられるなんて画家の父を持つと大変だな麗子…。
『よろい戸』ローマン・シグネール
展示されているのは、意味もなく開閉する窓の純粋な「運動」。(扇風機の風でバタン!バタン!と反復)
機能と目的から解放された窓。寄せては返す波のごとく、バタンバタンと月日を重ねて朽ちてゆくのだろうか…という無常を感じた。
楽しい企画展だった。
小沢剛のインスタレーションでは一芸の披露を求められるのだけれど、そこで堂々と踊ったり詩をそらんじたりできる人間でありたかった。
関連書籍を読んでから行ってよかったです。
https://bookmeter.com/books/7646369
『「記憶の珍味」諏訪綾子展』資生堂ギャラリー
食を媒体として“記憶を呼び起こす”体験型展示。嗅覚から体感する作品と、味覚から体感する作品があった。
味覚のほうは90分待ちだったので参加せず。
嗅覚のほうは、オブジェを選んで香りを嗅ぎ、いわゆるプルースト効果で引き出される個人的記憶をあじわうというもの。
私はエピソードを想起することよりも、複雑なアロマの中に見付けた「知っている香り」が何なのか、料理や香水を思い浮かべながら探すことを楽しんだ。
嗅覚の嗜好は味覚よりも後天的学習の影響を強く受けると聞くし、より個人差が大きいのだと思う。調香師やシェフは、そんな汎用性の低いものをデザインしているんだなぁ。
私は諏訪さんの世界観がよくわからなくて、作品コンセプトから外れた感じの感想になりました。
『伝説の面打たち』東京国立博物館本館 特集
『近江女』。わずかに非対称に作られた面。様々な角度から観察してみた。
不気味に表情が変わる。
表情筋をよく観察した上で、引き算を重ねてデフォルメされた顔。演者の表現力と観る者の想像力を無限にする工夫。表面的なリアリティの追求はむしろ限界を作ってしまうから、素晴らしいデザインだと思った。
『保科豊巳退任記念展「萃点」SUI-TEN』東京藝術大学美術館
*萃点……熊楠の造語で“さまざまなものが集まる場所”の意。
油画で25年も教鞭を執られた保科氏の回顧展。
スタイルに激しい変遷がみられないのは、社会背景が変化しても変わらないものにテーマを置いているからかなと思った。東洋的な世界観を感じた。
『雨の降る家』
家の内外が逆転した構造。家の中だけドシャ降り。
“もう内部には住めないのだろうか?”
『氷上の痕跡』
“気が付いたら、安全地帯と死に至る危険地帯との間を歩いていた。”
どちらも「境目」を意識させられる作品。
境目をつくりだしているものはなにか。そもそも本当に分離しているのか。分離しているという認識はどこからきたのか。
これ、壁にぶつかった時に必ず立たされる場所だ。時々は、立ち返るべき場所。